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2007年11月10日

2007年11月10日 (土)

御茶の水・仙台堀

Otyanomizu

御茶の水の由来は、時の将軍秀忠が鷹狩りの帰りに
高林寺(現順天堂医院辺りから水道橋付近まで)の
庭の涌き水でお茶を飲んでから、将軍御用達の
「御茶の水」になったと言う。

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葛飾北斎画「東都御茶之水風景」

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江戸切絵図1863年 駿河台絵図

元々駿河台と本郷台は地続きだったのである。
寛永二年(1625年)三代将軍家光の命で、
ここに伊達正宗が空壕(からぼり)を造った。
と言うのは、千代田城(江戸城)内で将軍家光と正宗が碁を
打っていた。正宗は普段の癖で碁石をおろそうとして
『城のうしろから入るぞ、城のうしろから入るぞ』と
たびたび言った」(甲子夜話(かつしやわ)の一節より)
これがいわゆる本郷攻めで、地続きの本郷台から
駿河台に進出し、大砲を構えると江戸城は射程距離内だったのだ。
このことがあって、正宗は壕を掘らされた。
これがお茶の水谷、または仙台堀、伊達堀などとも言われた。
後、神田上水の水を流し、東京湾から船を入れる工事も、
万治三年(1660年)伊達綱宗(つなむね)に命じられた。
名水「御茶の水」は割堀が出来てからも崖ぎわにあったが、
拡幅通水のおり、水中に没してしまった。

この堀は江戸時代、江戸城防衛上の理由で橋は架かって
いなかった。 二度に渡り、自費で仙台藩にやらせたのは、
伊達家の財政を苦しめるためであった。
この工事による伊達藩の内紛を題材にしたのが
山本周五郎作「樅の木は残った」である。

この谷の美しさは世間に知られ、中国の名勝
「赤壁(せきへき/三国志に出て来る)」にならい
「小赤壁(こせきへき)」と呼んでいた。
上記北斎の絵の様に、ここから富士山が見えたと言う。

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明治初年頃のお茶の水谷

見下ろせば木曽思い出すお茶の水

景勝木曽谷と比べられたり、昭和の初め頃まで
小学校の遠足の場でもあった。
菊坂下に住んでいた樋口一葉は明治になって
掛けられたお茶の水橋の完成後、すぐに赴き、

行(ゆき)かふ火(ほ)かげもおかしく、金波銀波こもごもよせて、
くだけてはもどかなるかげ・・・・

と日記に書いている。
また、駿河台は徳川家康の死後、江戸に帰った
駿河詰の旗本を住まわせた事による。
旗本屋敷が多かったため、ここらは学業、武芸の学校が
多くなり、現在も継承され、駿河台、水道橋、神保町、九段、
神田辺りまで学校など教育、武芸館が多く、一大学生街に
なっている。古本屋街でも有名である。


資料:文京区歴史読本・江戸切絵図・別冊太陽「葛飾北斎」

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