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2007年11月16日

2007年11月16日 (金)

青い眼のサムライ

以下の言葉の元は オランダ語 である。
どんたく --------------------ZONDAG=日曜日
カルシウム ------------------CALCIUM
チョコレート -----------------CHOCOLADE
セメント--------------------CEMENT
ハム------------------------HAM
インク----------------------INKT
インフルエンザ ------------INFLUENZA
カルキ---------------------KALK
オテンバ -----------------ONTEMB AA R=ならしにくい
スコップ-------------------SCHOP
ランドセル -----------------RANSEL
ズック---------------------DOEK(布、織物)
オルゴール ---------------ORGEL
けんけん(片足跳び)-----HINKEN

日本は言葉でもわかるように、密接な関係が過去、オランダとあった。
オランダ人に画家レンブラント、ゴッホ、 医師シーボルト
(彼は医者ではない。 収集家である。日本に来たくて嘘を言った)
最後は国外追放され、日本に残した一人娘に産科の看護士になった
楠本いね----通称オランダおいね---がいた)、
ポンぺ(オランダ 海軍 が呼んだ医師)、
アンネ・フランク(ユダヤ系ドイツ人、オランダに移り住んだ)などなど。
本国オランダでは知られない人でも日本では多大な影響を与えた人達も
いる。特にポンぺ先生はそういう人である。

この国はどの呼称が正しいのか?
オランダ本国をあわらす時、 英語ではThe Netherlands(ネイザーランド) 。
オランダ語では「ネーデルラント」。
“低い土地”という意味で、古くからベネルクス3国 (オランダ、ベルギー、
ルクセ ンブルク)の地域がこう呼ばれていた。
"The"をつけるのは、この“低い土地”という 普通名詞が固有名詞と
なったためである。
日本語の「オランダ」に由来するHollandも使われるが、これは西海岸に
ある「ホラント」と言う地域の呼称である。
戦国時代、ポルトガル人が訛ってオランダと言っていたことが始めらしい。
Dutch(ダッチ・・・水出し珈琲のダッチ珈琲なんてもんがある)と
言う時もあり、「割り勘」と言う意味でもあるらしい。

その昔、イギリス人は商業に於いて、オランダ人に悪感情をもち、
軽蔑 してこう言っていた。
「割り勘」と言う発想はオランダが祖である。
集団で出費して買う・・・と言う発想はすごい。
ローンもここからの発想であろう。
たとえばレンブラントの絵に集団のものがある。

Renbrant
レンブラント自画像

1人では画家を雇えないので集団で「割り勘」にして1枚の絵を
描いてもらった。
モデルから「俺はこんな不細工じゃない」とか、「ひとまとめにして
描くんだから、もっと安くしろ」とか、注文が集団で、わいわい
言って来るので、レンブラント自身は困ったらしい。

Logo
オランダ東インド会社・・・正式には連合東インド会社
オランダ語: Vereenigde Oostindische Compagnie、略称 VOC )
アムステルダム本社の ロゴ マーク

オランダ人が考えた株式会社はまさにそれである。
1602年に発足したオランダ東インド会社はそうした経緯から
出来上がった。
付け加えであるが、1600年にイギリス東インド会社が発足した。
初期には東インド(インドネシア)での香辛料の貿易参入をめざし、
インドに拠点を置き、イギリス人は手軽にカレー を食べてもらおうと
カレー粉を考案。その後イギリスから日本に入って来たのである。
特に明治 になってイギリス式になった海軍はその影響を受けた。
現在でも海上自衛隊 には毎週「カレーの日」があり、海上では長航海時、
曜日がわからなくなることから「カレーの日」 によって船上員に
曜日を知らせているという役割もあるそうだ。

イギリス東インド会社の発足が1600年と書いた。
祖であるオランダ東インド会社の方が1602年発足と言うのはおかしい。
ここにイギリスとオランダのややこしさ、さらにスペインやポルトガルが
絡んで来る。 戦争である。
スペインやポルトガルは領土や宗教の戦争である。
イギリスとは言わば経済戦争である。

さてオランダの歴史話をしていると尽きない。
中途ではあるが、後はなにがしかの本でも読んでもらいたい。
ここでは日本とオランダの付き合いの始めを書く。

日本がまだ戦国時代(1558年)、オランダは5隻の商業船を出航させている。
この時代、日本は「黄金の国 ジパング」と言われていた。
実際には秀吉の黄金好きが欧米に知れたことが切っ掛けで、庶民が
裕福だったわけではない。
この頃、オランダは東インド会社とは言っていなかった。
オランダは「日本にウール(羊毛)を売りに行こう」と思った。
当時日本は綿の着物しかなかったからである。

その 航路は悲惨を極めた。5隻の内、4隻が沈没、廃船、 病気 のまん延、
立ち寄った国で乗組員の殺害などにもあい、1600年(慶長5年)4月19日
九州豊後国(大分県)の漁村に漂着した。
ボロボロの状態だった。
数名の乗組員の中にオランダ人航海士ヤン・ヨーステン、
イギリス人航海士 ウイリアム ・アダムスもいた。
アダムスとヨーステンは、日本に最初に来たイギリス人、オランダ人だった。

Yayosu
ヤン・ヨーステン(耶楊子)

Adams
ウイリアム・アダムス( 三浦 按針)

時の城主・太田飛騨守は彼らを友好的に迎え、病人の看護をした。

その後、「オランダ人とイギリス人に会ってみたい」と、
アダムスとヨーステンは家康に引き渡され、接見した。
通訳が付いたが、なにせこの時代である。少々ぎこちなさが
あったのではないか。

「そなた達はなにをしに来たのか?」
「ハイ、ウールヲ売リニ、キマシタ」
ウールなど要らないのに・・・と思った。
「では、それを売るために命がけで来たのか」
「ハイ」
家康は感動した。
「そなた達はキリスト教か?」
「イエ、プロテスタントデゴザイマス」
アダムスとヨーステンはカトリックか?と問われたと
思ったらしい。
プロテスタントとカトリックの違いを知らなかったと言えるし、
プロテスタントってなんじゃい?と思ったかもしれない。
キリシタン弾圧は始まっていた。
キリシタン=カトリックであった。
「イエス」と答えていたら、どうなったか。

(ちなみに商人とは・・・
中国の殷(いん・・・前17世紀〜前11世紀半ばにかけて黄河中流域を
支配した古代王朝。日本では殷とよばれるが、次の周王朝が
つけたもので、自らは商(しょう)と称した。ここの民衆は商売が
うまかった。商がほろんで人々は中国のあちこちに逃げ、商売をした。
商の人・・・商人の発祥である。
日本語で商人(しょうにん)を「あきんど、あきない」と言う。
いくらやっても”飽きない”・・・からきていると言う。

アダムスはその後、三浦半島の横須賀で西欧の事情や天文・数学の師として
また、造船の技術者として働き、日本名「三浦按針(あんじん)」を授かった。
ヤン・ヨーステンは江戸で日本の貿易の手助けをした。
家康から屋敷を与えられ、 江戸城下に住み、日本人と結婚した。
今もその場所をヤン・ヨーステン(日本名:耶楊子・・ヤヨース)に
ちなんで「八重州(やえす)」と呼ぶ。

2人は青い眼のサムライとして仕えたのである。
「ガリバー旅行記 」の ガリバー のモデルは
ウイリアム・アダムスではないかと言われている。
はじめて見た日本人が小人に見えたのかもしれない。
話の中に日本そのものが出て来るのである。

ヤン・ヨーステンは、その後帰国しようとバタヴィアに渡ったが
帰国交渉はできず、再び日本へ帰還中、乗船していた船が
インドシナで座礁し、1623年に溺死 した。

ウイリアム・アダムスは平戸にて、1620年病死。


参照:オランダ観光協会、中央区史誌、 東京駅八重洲口、
神奈川県三浦市史誌、 司馬遼太郎 「街道をゆく 〜オランダ紀行」
田口一夫「ニシンが築いた国オランダ」

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