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2007年12月27日

2007年12月27日 (木)

江戸の始め

Kokyo01
皇居

「江戸」の名が初めて出て来るのは
「吾妻鏡」と言われ、
鎌倉幕府の歴史書であるが、それによると
江戸桜田郷に居を構える秩父重継の長男「江戸太郎重長」が、
武蔵国の長として平氏に味方し、源頼朝と戦ったとある。
けっきょく鎌倉時代から南北朝を経て江戸氏は滅びてゆくが
「江戸」という地名は残った。

江戸の由来は
江の戸口にあったから・・・・と言う説、アイヌ語で湾岸を「イト」と言い、
そこから訛ったのでは?と言う説もある。

Kokyo02
明治初頭の頃の二重橋

江戸氏が滅びた後、江戸の地は草深い葦のしげる場所となってゆく。
長禄元年(1457)関東を治める管領. 上杉氏は家臣、太田道灌を江戸に封じ、
千代田城(江戸城)が築かれる。
湯島、本郷、日暮里、上野などの台地の間をいくつもの川が流れて
江戸湾に注ぎ、台地は森林に覆われ、海は現在の日比谷辺りまで入り込み、
舟が浮かび、千鳥や鴎が群をなして飛び、先は湿地帯と小島が続いていた。
文明18年(1486年)、当時の主君だった上杉定正の策略により太田道灌は
暗殺される。

天正18年(1590)豊臣秀吉に江戸へ封ぜられ、入府した徳川家康は
荒れ果てたこの土地をどうしようか・・・と思ったにちがいない。
海から攻められればひとたまりもない。
家康は港湾都市建設(埋め立て)に力を注ぎ、灌漑、治水工事を3代をかけ、
今で言う下町まで埋め立て、城下町を造った。
道具は鍬(くわ)であった。
美濃から運ぶ材を運ぶため、湿地帯と小島をつなげ、掘り割りを作った。
下町に島の名が多いのはこのことによる。
特にここらは人の手が入らなかった地区は無いと言ってよい。
下町は埋め立て地であり井戸を掘っても真水が望めなかったため、
いわゆる山の手には、上水道設備が施された。
その後、関東各地の産物は江戸に集荷するにとどまらず、人と文化の交流も
大いに潤いで、文化が花開き、東京の礎を創った。

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