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2008年3月1日

2008年3月 1日 (土)

聖徳太子とキリスト

Taisi

聖徳太子の父は用明天皇。
母は欽明天皇の娘である穴穂部間人皇女
(あなほべのはしひとのひめみこ)。
20歳でおばの推古天皇(額田部皇女)の摂政(天皇の代理)となり,
大臣の蘇我馬子と協調しながら政治を行った。太子の仕事は豪族たちの
争いをやめさせ天皇中心の強力な国家を造ることであり、
冠位十二階を定めて有能な人材を役人に登用(603年)、十七条の憲法で
豪族や役人の心がまえを説いた(604年)。
また、小野妹子を遣隋使として中国(隋)につかわし(607年)、

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」

と有名な国書を送った。大国「隋」との対等外交と中華圏からの独立を
意識したものと思われ、大陸の文化や制度を導入した。

Horyuzi

仏教を深く信仰し、これを日本でもさかんにしようと、594年に仏教興隆の
詔(みことのり)を出し、四天王寺や法隆寺を建てる一方、経典を研究し、
「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」という注釈書をあらわした。
太子の仏教奨励策の結果、都のあった飛鳥地方 (奈良盆地の南部)を
中心に、すぐれた仏教文化が栄えた。
「天皇記」「国記」という歴史書の編集も手がけ、622年斑鳩宮に
48歳で没した。

厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよみみのみこ)・・・
母(いろは)の皇后(きさき)を穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとの
ひめみこ)と日(もう)す・・・・・・・
馬司(うまつかさ)に至りたまいて
たちまち厩(うまや)の戸に当りて労みたまわずしてに産まれませり。
生(あ)れましながら能(よ)く言(ものい)う。
聖(ひじり)の智(さとり)有り…………………日本書紀

上記は太子が産まれた時の話とされている。
厩戸豊聡耳皇子とは聖徳太子のことである。
母親が厩の戸に当たった拍子に産まれた・・・・と言う。
前後の詳細はこうである。
穴穂部間人皇女(太子の母親)の夢に金色の僧侶が現れ、
「我に救世の願あり。しばらく皇女の腹に宿る」と告げ,
皇女が名を尋ねると「西方の救世観音(くぜかんのん)菩薩」と名乗り、
皇女が「仰せのままに」とうなずくと、金色の僧は皇女の口中に飛び込んだ。
受胎したお腹から、8ヶ月時には胎児の声が聞こえたと言う。
10月10日を過ぎても出産の兆しはなく、霊夢からちょうど一年後の
正月元日、宮中を見回り中、ちょうど厩戸の前にさしかかったとき、
皇女はふいに子を産み落とした。陣痛もなく、出産に気づかないほどだった。
赤子の片手には、小豆ほどの仏舎利がにぎらていた。
赤子は「厩戸皇子」と名付けらた。
つまり「厩戸皇子」は救世観音であると言う。

Annunciation1_3

聖母マリアが夢に天使ガブリエルが現れてメシア(救世主)を受胎すると
告げられる話やキリストが馬小屋で生まれる話とそっくりである。
また、太子を救世観音と見抜いて、礼拝したのは日系百済(くだら)人の
日羅(にちら)であるが、イエスも洗礼者ヨハネによってメシアとして
認められている。

これらの伝説は『聖徳太子伝暦』(917年成立)に載っていて、
唐代中国で流行していた景教(キリスト教ネストリウス派)の知識が
日本に移入され、太子伝と重ねられ太子生誕逸話となったのではないか
という説が有力だった。

蘇我氏との政争に敗れて太子は妃と共に斑鳩宮(夢殿)の中で死んだ。
およそ20年後、太子の子・山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)も
蘇我入鹿達に襲われ、一族共に自刃。
聖徳太子の血筋は絶えた・・・・・。
645(大化1)年  大化の改新・・・中大兄皇子や中臣(藤原)鎌足らが
中心となり推進した。
聖徳太子の死後、山背大兄王とその一族を滅ぼすなど蘇我氏の勢力が
ぼっ興し、天皇家をしのぐほどの力をもつようになった。
中大兄皇子(のちの天智天皇)や中臣鎌足らは中国(隋や唐)で
政治や文化を学んで帰国した留学生とともに、天皇を中心とする
中央集権国家の建設をめざし、蘇我氏をたおし(暗殺)
政治の改革に着手した。

法隆寺は607年頃聖徳太子によって創建され670年に焼失。
落雷が原因とされているが、この2年後、壬申の乱(じんしんのらん)。
672年、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と
天皇の長子である大友皇子が、皇位継承をめぐって内乱が起きる。
大友皇子は敗北して自決し、翌年、大海人皇子は即位して天武天皇となる。
そして7世紀〜8世紀(天平時代)を向かえ、この時期、法隆寺は
今見る形に再建された。同時に古事記、日本紀(日本書紀)が
編纂(へんさん)され、聖徳太子の伝説と信仰が広がっていく。
再建法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ、鎮めるための寺だったとも
言われている。

なぜ仏教を日本に広めた始祖を没数十年後、日本書紀にキリストと
ダブらせる話を載せたのか?

Fuziwara

日本書紀を推進したのは藤原朝臣不比等 (ふじわらのあそみふひと )
659(斉明5)〜720(養老4) である。
仏教を増々推進させねばならぬ。偶然の名「厩戸皇子」をモチーフに
聖徳太子を仏教偉人(聖人)として広告塔的役割を企てたのか?
しかし、釈迦の疑似話でもよかったはずである。
なぜ?キリストだったのか?また不比等にそれを教えたのは
誰だったのか?

聖徳太子は実在したのか?も疑わしい。
いまだ謎の多い人物、逸話である。


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