カテゴリー「昔、昔の話でございます」の17件の記事

2008年9月28日 (日)

おいら江戸ッ子よ!

Asakusa


親父はすでに25年くらい前に死んでしまった。
死因は腎臓ガンと言われているが、解剖は避けたので
はっきりと死因はわからないでいる。

具合が悪くなって入院を強制され、御茶の水の順天堂病院を
紹介されたが、親父はがんとして聞き入れなかった。

「御茶の水なんてえところじゃ競馬ができねえ」

本人は寝込んでんだから競馬なんかできるわけもないのに。

「浅草だ!」

と言うことで設備もあまりよろしくない浅草の病院になった。

浅草には新族会社があり、若い社員を病院に呼びつけては
場外馬券場に券を買わしに行っていた。
そう、浅草には場外馬券場があるのだ。

無類のギャンブル好きであったのだ。

酒も女もやらないかわりにギャンブルは異常だった。
競馬、競輪、競艇、ちんちろりん、麻雀、将棋、若い頃はハスラーで賭けビリヤード。
わたしゃ幼少の頃、賭場に夕飯の知らせに行ったこともある。

そんななので、逸話は山ほどあるがここでは出来ない。

その頃、デザイン会社に勤めていて、午後に会社に家から電話があった。

「父ちゃん、死んじゃったよ」

急いで病院に行き、死因を聞いてたまげた。

「今日も馬券を会社の若い衆に買わしに行ってさ、
大穴当てたんだよ。そんでもって、点滴はずして廊下に
すっ飛んで行って、ばんざーーーい、ばんざーーーい、ってやって、
コテっと倒れたんだよ。その後、先生に怒られてさ、
すんません、もうしません。なんて言ってさ、急に容態が悪くなってね。
あっと言う間さね」

さて葬式は社葬となったが、通夜の夜中、役員たちが棺桶の前で賭け麻雀を
始めたのである。

「これが一番喜ぶぜ」

葬式で参列者たちに死因を聞かれ、話すとみんなが笑った。

「あの人らしいですなあ」

その後、「借金はなかったのか?」と通帳を調べたのである。ギャンブル大好きな
親父である。大借金があるにちがいない。
結果、一銭もなかった・・・が金もなかった。
財産などあるわけもなく、なにもない。
と言うか給料は、たらふく貰っていたのだが、大金を勝手におろしたりしている。
まとまった金が入ると会社の人や親戚にくれてやったり、おごったりしていた
らしいことが通帳から、役員たちの話であきらかになった。


生前、「おれももっとずるく生きれりゃなあ、マンションの一戸も
持てたんだがなあ」と言っていたが、大嘘だとばかり思っていた。
ありゃ、ほんとだったんだ。


若い頃は浅草六区や上野のアメ横でふらふらしていたそうだ。
或る日、かっぱらいをしていた小僧をひッ捕まえて、会社に連れて行き、
丁稚みたいなことをさせたと言う。
戦後、親を空襲などで亡くした小僧たちに職を与えていたのであるが、
「おう、まかしたぜぃ!」と置いていって本人はまた、ふらふらとどこかに
行っちまったそうだ。寅さんみたいだ。
しかし、その子供はそれから何十年もそこで働いた。
「おまえの親父さんには恩があるんだ」
と言っていた、さる会社の部長さんがその人だった。

宵越しの銭はもたねえ

昔ながらの江戸っ子気質、浅草気質


その後、その大穴の懸賞金をもらった。
それが親父の財産分与であった。
最後まで「らしい・・・」親父だった。

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2008年4月 7日 (月)

本来、上野公園はなかったと言うお話

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上野駅周辺は江戸時代、徳川の菩提寺の一つであった
「東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)」と言うお寺だったことは
知られた話である。

Kaneizi

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「東叡山之図」 玉欄斎橋本貞秀画一部

今でも裏手に細々と寛永寺はあるが、昔は駅周辺から三ノ輪、不忍池までの
大きなものだったそうで、江戸城の丑寅 (北東)の方角、鬼門を
封じるために、この地に建てたのが始まりである。
江戸城は風水によって建てられている。
そのため虎ノ門など言う名にもその形跡が残っている。

上野の裏町、谷中がお寺町なのはそういう経緯に寄っている。
徳川慶喜と奥方のお墓も谷中墓地にある。
今でも上野公園には当時を思い起こすことが出来る、東照宮、寺、神社、
大仏像跡などが見受けられる。

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さて、時はうつり徳川の繁栄も崩壊すると、彰義隊 (しょうぎたい〜
若い士族たち〜元侍の子達)がここに立てこもり、西郷隆盛が
現松坂屋に本部を設置し、これに立ち向かったが、伽藍は焼失、
一帯は焼け野原と化してしまった。

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「明治元戌辰五月十五日東台大戦争図」歌川芳虎(永島孟斎)画一部
真ん中に黒門が見える。

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彰義隊隊員の墓 
上野公園内西郷隆盛像後ろ

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寛永寺西にあった黒門。丸い穴は銃弾の跡。
この門のあった場所周辺を昔、黒門町(現湯島辺り) と
言っていた。

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彰義隊隊員個人の墓。

共に荒川区三ノ輪円通寺内

明治になって、ここに医学大学校を建てる話が持ち上がった。
まかされたのは、石黒 忠悳(ただのり)と言う医師であった。

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石黒忠悳(1845〜1941)

上野の山を全部、大学にしちまおう!って計画である。
設計図なども出来上がった頃、石黒はちょうどA・F・ボードウィンと
言うオランダ医師に会ったのである。

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アントニウス ・ボードウィン
Anthonius Franciscus Bauduin
在日期間1862-1866,1867,1869-1870

彼は幕末にオランダ政府が派遣 した医学教授で、
帰国のためちょうど東京にいた。
石黒は「上野に大学をつくるんです。設計図もあります。
案内しますから、ぜひ来て下さい」
と言い、得意満面で共に上野に行ったのである。

ボードウィンは見るなり「だめだ、このプランは止めたまえ。
都市には緑が必要なんだ。それを丸裸にして大学をつくるなんて、
君たちは大きな意味でまちがっている」と言いはなった。
「ここは公園にしなさい」。
焼け野原になったとは言え、大きな樹木がところどころに
あったのである。

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「公園ですか?」石黒はショックであったにちがいない。
石黒に限らず、当時の日本人に「公園」と言う都市空間思想など
あるわけもなく、都市においての緑がどうなんだい?と思ったに
ちがいなかった。
ボードウィンが言うことだから「緑は必要なんだ!」と思い込んだ。
思うに、その後都市森林と言う思想を勉強したのではないか?

それを政府の偉い人たちに説いた。
そのかいあり、上野の森は残すこととなり、本郷の加賀屋敷、
富山藩邸を借りてつくり上げることになったのである。

Akamon
東京大学に今も残る赤門(元加賀藩邸門)

それが東京大学である。
それでも政府は博物館や美術館、道路をつくって、樹木を切った。
が、ともかくも上野恩賜公園として残ったのである。

わたしゃ、博物館も美術館も好きである。
東京藝術大学の学生が芝生の上でキャンバスを手にしている姿、
子供の頃からの遊び場だった上野動物園、小学生の頃、観た
ツタンカーメン、国立科学博物館のTー レックスの化石 。
それが上野公園の風景である。

ボードウィンは物資の豊かさではない、都市においての緑、
都市森林と言う思想を教えてくれたのである。
上野にこの大きな公園がなかったら、東京も随分と
殺風景な町になっていたであろう。

石黒忠悳氏は年老いてから回想録を書いている。
「ボードウィンに言われてはじめて、自分には公園と言う
思想もなかった。都市に公園が必要なんだと言うことを
知らなかった」

彼は当時、きっとその イメージを思い浮かべたにちがいない。
緑のない都市と緑豊かな都市。
この聡明な人がいなければ、上野公園もなかったのである。

ちなみに石黒忠悳氏の息子さんは後、戦前の農林大臣になった
石黒忠篤(ただあつ)氏である。

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石黒忠篤


参照:司馬遼太郎「十六の話 樹木と人」、台東区史

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2008年3月29日 (土)

妻戀弟橘

古代の神話に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征にて、
三浦半島から房総に渡るとき、船が暴風雨に会い、
妃の弟橘姫(おとたちばなひめ〜弟橘比売)が身を海に投げて海神を鎮め、
尊の一行を救ったとある。
七日後、上陸した上総(かずさ:千葉県)の海岸で、尊は流れ着いた
櫛(くし)を見つけた。それが弟橘姫のものとわかった。

『古事記』によれば尊は神奈川県の足柄山にて、
「吾妻はや」(我が妻よ)と嘆いた。
日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむと言う。
弟橘姫の袖が流れ着いたとされる千葉袖ヶ浦など、
この事柄の由来地名が多くある。
●走水(はしりみず)の伝承にちなむ千葉地名
袖ケ浦市
木更津市
君津市
富津市など
実際に走水したのは伊豆の観音崎走水辺りで、ここにお祠(走水神社)がある。

「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
という歌碑が建っている。
「相模の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくれた貴方」
相模の国造に騙されて、火攻めにあった時のことを詠んでいる。
古事記のみにある歌。

日本武尊の武勇伝に関しての地名説話などは他県にごちゃまんとあるのです。

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東京文京の湯島にある妻戀(恋)神社。
神田明神の裏手に在る。
日本武尊と妃の弟橘姫を祀った神社である。
尊が湯島に滯在した際、妃を慕われる心を哀れんで、郷民たちが
二人を祀ったのが起こりなのだそうだ。
また「夢まくら」の起こりの社としても知られている。

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日本武尊と弟橘姫の神社と言うわりに、なんとも小さく、地味な神社である。
まずそのことに驚かされた。
郷民たちが建てた・・・と記録にあるから小さいのであろうか。
鳥居(一角が稲荷になっている)の後は満開の桜である。
日本武尊の最期は白鳥になって飛んで行く。
かくも美しい話である。

「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 
やまとしうるわし」

さてここは古代の美しき夫婦愛の神社となるのであるが、
閑散としていた。
弟橘姫のことなど知っている人は少ないのではなかろうか?
なにせ隣と前はラブホテル。
「愛の象徴」なのか?ジョークにしてもちょっと姫が気の毒である。
東京都民としても、ちと恥ずかしい思いがする。

Tumakoi03

付け加えではあるが、その一角に馬頭観音の碑がある。
日本武尊の神社には馬頭観音碑がなぜかよくあり・・・。
地名説話なども実に面白い。
日本武尊はとにかく英雄なんですが、知れば知るほど謎も多い。
カテゴリー「奇談にて候」になっちゃうかも。
その話はまたいつか・・・。

注:日本武尊(やまとたけるのみこと)は日本書紀の表記。
古事記では倭建命(やまとたけるのみこと)。
ここでは一般的によく表記される漢字を示しました。

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2007年12月27日 (木)

江戸の始め

Kokyo01
皇居

「江戸」の名が初めて出て来るのは
「吾妻鏡」と言われ、
鎌倉幕府の歴史書であるが、それによると
江戸桜田郷に居を構える秩父重継の長男「江戸太郎重長」が、
武蔵国の長として平氏に味方し、源頼朝と戦ったとある。
けっきょく鎌倉時代から南北朝を経て江戸氏は滅びてゆくが
「江戸」という地名は残った。

江戸の由来は
江の戸口にあったから・・・・と言う説、アイヌ語で湾岸を「イト」と言い、
そこから訛ったのでは?と言う説もある。

Kokyo02
明治初頭の頃の二重橋

江戸氏が滅びた後、江戸の地は草深い葦のしげる場所となってゆく。
長禄元年(1457)関東を治める管領. 上杉氏は家臣、太田道灌を江戸に封じ、
千代田城(江戸城)が築かれる。
湯島、本郷、日暮里、上野などの台地の間をいくつもの川が流れて
江戸湾に注ぎ、台地は森林に覆われ、海は現在の日比谷辺りまで入り込み、
舟が浮かび、千鳥や鴎が群をなして飛び、先は湿地帯と小島が続いていた。
文明18年(1486年)、当時の主君だった上杉定正の策略により太田道灌は
暗殺される。

天正18年(1590)豊臣秀吉に江戸へ封ぜられ、入府した徳川家康は
荒れ果てたこの土地をどうしようか・・・と思ったにちがいない。
海から攻められればひとたまりもない。
家康は港湾都市建設(埋め立て)に力を注ぎ、灌漑、治水工事を3代をかけ、
今で言う下町まで埋め立て、城下町を造った。
道具は鍬(くわ)であった。
美濃から運ぶ材を運ぶため、湿地帯と小島をつなげ、掘り割りを作った。
下町に島の名が多いのはこのことによる。
特にここらは人の手が入らなかった地区は無いと言ってよい。
下町は埋め立て地であり井戸を掘っても真水が望めなかったため、
いわゆる山の手には、上水道設備が施された。
その後、関東各地の産物は江戸に集荷するにとどまらず、人と文化の交流も
大いに潤いで、文化が花開き、東京の礎を創った。

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2007年11月25日 (日)

神風神話

Genkou

鎌倉時代に元寇 (げんこう)があった。
当時中国大陸を支配していた元(げん)の国が2度にわたって日本に
海から攻めてきたのである。時は北条の時代。
外国からの侵略などには慣れていない、この国ではあったが、
武士の時代である。
1度目の文永の役では、日本の武士は名乗りを上げての
一騎打ちしか戦い方を知らず(やあ、やあ、われこそは〜・・・と言う
例のやつである。そんなこと言ってる間に殺されちゃったんだろう)
一方的に敗退したが、幸運にも暴風雨が起きて元の船団は
撤退したとされている。

2度目の弘安の役では、日本側は既に防衛体制を整えていた。
博多沿岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いていたのである。
この防塁はもっとも頑強な部分で高さ3m、幅2m以上とも
言われている。文永の役によって元軍の戦法を承知していた
北条軍は優勢に戦い元軍を海上に追い落とした。更にゲリラ戦術に
より元軍を悩ませた。そしてまたも暴風雨が襲来し、元の軍船は
なすすべをなくした。
そこに武士達は元軍に襲い掛かり、殲滅させたのである。

いわゆる「神風が起きて元の船団は撤退した」とされる伝説である。
これが勇猛果敢な武士の時代であったことは、良かったと思う。
文永の役における蒙古軍の撤退に関して、「勘仲記」には、伝聞と
して逆風が吹いたことが記されてる。
高麗の史料、「高麗史」などには撤退途中に風雨が起き多数が
座礁した事が記されている。
気象学的には過去の 統計 に台風の渡来記録が無いことから、
台風以外の気象現象という見解もとられている。

文永の役に関しては台風説の可能性は、ほぼなかったと言うのが
今日での見解が多い。弘安の役に於いても、当時の日本が
知り得なかった江南軍壊滅の理由を台風や熱帯低気圧の影響と
しながらも、博多沖の東路軍は、それとは違った理由で壊滅した
という説もある。

参照: フリー 百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』 から

なににせよ「神風が吹いて悪の帝国は壊滅した・・・」と言うことが
伝承として、長く語られていることは事実である。
日本は「 八百万の神が降たもう神の国」と言われている。
つまり、元寇の神風なども実際には何が起きたのかは、
はっきりせずとも、「わが日本は八百万の神の国」として、神話じみた
話に仕立て上げたのではないか。
思えば「古事記」や「日本書記」の中の事柄も意味不明な事柄が多い。
多いが、何か実際に起きたことを神話にした・・・と思うのである。
各地に残る神社や遺跡は、何をものがったっているのか?
よくわからない。

考古学の先生や異端な考えなども合わせもってみると、
神話そのものであろうと、もっと現実的にとらえて
「こういうことではないか?」とされる話や、いろんな説を
見聞きしても、一級品の史話になり得るのである。
無論、学者 さんたちが良い話に仕立て上げるわけもなく、
研究の結果であり、興味の尽きない話である。


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2007年11月23日 (金)

おもしろき、こともなき世を・・・

Shinsaku
高杉晋作

幕末の長州(現山口県)志士高杉晋作辞世の句である。
「おもしろき、こともなき世をおもしろく、 すみなすものは 心なりけり」

一般的には前半の
「おもしろき、こともなき世をおもしろく」
と知られている。

実に小気味のよい句である。
高杉晋作と言う男がどういう人間か?この言葉からにじみ出ている。
この言葉が大好きである。
竜馬ファンのわたしゃ、高杉晋作も好きなのだ。

晋作は激動の時代でなかったら詩人にでもなっていたんじゃ
なかろうか。三味線と小唄が好きで自作もしていた。

三千世界のカラスを殺し、
ぬしと朝寝がしてみたい
わしとおまえは焼山かずら
裏は切れても、根は切れぬ

酔うと自作の唄を三味で披露していた。

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2007年11月21日 (水)

上野不忍池博覧会

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明治 〜大正〜 昭和の始め頃まで、上野が博覧会会場の
メッカであったことなどは、ほとんどの人は知らない。
近代日本を象徴させるために興業ものが多かった。 明治時代から、
その後、娯楽性のものと変化している。
内国博覧会と呼ばれたそうである。
特に明治後期〜大正時代のものが興味深いので紹介します。
上野が華やいでいた時代です。


明治40年「上野・ 東京勧業博覧会」

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博覧会全景

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観覧車、ウォーターシュート、特にイルミネーションが人気だったそうです。
一番上写真、真ん中は不忍池。新設の観月橋が架けられ
世界周遊館、パノラマ 館などが登場。
博覧会って言うよりアミューズメント ・パークですね。こりゃ。


大正13年「東京大正博覧会」

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博覧会全景

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第二博覧会場

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エレベータ、 ケーブルカー が登場。
半年間で約746万人の会場数。 ミイラ、美人探検館とかの
キワモノなんかあったそうです。娯楽性が前面に出てますねえ。

なんだかなあ。ほのぼのしてますねえ。
しかし、これだけやっといて跡形もない・・・ってのも凄まじいです。

参照:ビジュアル台東区史

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2007年11月20日 (火)

ザビエルの書簡

Xavier

日本に初めてキリスト教を伝えた誰もが知っているフランシスコ・ザビエルで
ある。スペイン人のイエズス会宣教師。
戦国時代の1549年( 天正18)に来日し、日本に初めてキリスト教を伝えた。

山口 ・府内( 大分 )などで布教 したのち、中国広東の地で客死。
絵の下部には万葉仮名で
「サンフランシスコ・サベリオ ・サカラメ ント (聖フランシスコ ・
ザビエルが秘蹟を行っている)」と記されている。
17世紀初期の作品だそうである。

サカラメント= サクラメント 【sacrament】
キリストによって定められた神の恩恵にあずかる儀式。
カトリック教会では秘跡といい、洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油・
叙階・婚姻の七つ。
プロテスタント諸教派では聖礼典(礼典)と称し、洗礼と
聖餐 (せいさん) 式とをいう。

彼は日本人について次のような報告をローマへ書き送った。
「まず第1にいうべきことは、今までの交際によって知り得た限りにおいて、
この国民は、私が出逢った民族の中で、最もすぐれている。
日本人は一般的に良い素質を持ち、悪意がなく、交際して非常に
感じが良い。
彼らの名誉心は極めて強く、彼らにとって名誉にまさるものはない。
日本人は概して貧しいが、武士も町人も貧乏を恥と
考えている者はない。
彼らには、キリスト教国民の持っていないと思われる1つの特質がある。
それは、たとえ武士が如何に貧しく町人が如何に富裕であっても、
貧しい武士も富豪と同様に 平民から敬意をあらわされている
ことである。また武士が如何にまずしくとも、また如何に財宝が
山と積まれようとも、平民とは決して結婚しない。
それにより自らの名誉が失われると思うからである。

日本人の交際には極めて多くの礼式がある。
武器を尊び、武芸に達することを願っている。
彼らは武士も平民も14歳になるとみな大小の刀を帯びている。
彼らは侮辱や嘲笑に堪え忍ぶことは出来ない。

日本人の生活には節度がある。が、飲むことにかけては、
聊か過度である。
賭事は大いなる不名誉と考えているから一切しない。
それは自分の所有でないものを望み、ついで盗人になり
易いからである。
彼らは起請することは稀であるが、誓う時には太陽にかけて誓う。
住民の大部分は読み書きができる。そのため彼らは
オラシヨやデウスのことを速やかに学ぶことができ、
我らにとって頗る好都合である。

日本人は妻を1人しか持たない。
窃盗は極めて少ない。
それは死罪に処せられるからである。彼らは非常にこの罪を
憎んでいる。
日本人はこのように非常に善良で、人づきがよく、
知識慾に富む国民である。

デウスは私たちを、贅沢の出来ない国に導き給うたことに
より、私たちに多くの御恵みを賜ったのである。
日本人は彼らの飼う家畜を屠殺することも喰べることもしない。
彼らは時々魚を食膳に供し米や麦を食べるのであるが、
それも少量である。しかし彼らの採る野菜は豊富であり、
僅かではあるが、種々の果物もある。
しかも、この国の住民は不思議なほど健康であり、
中には稀な高齢に達する者も少なくない」

読み書きできる日本人が意外に多かった・・・と言うのは
びっくりである。何せ戦国の時代だ。 身分制度、
男尊女卑などの話も述べられている。
現代人が読めば、時代を感じるが全体的には日本人に
好印象を持った・・・と、言うことである。

ザビエルは日本人と言っているが、 本人たちは日本人とか国などと
言う観念などなかったはず。戦さで切り刻まれ腐った屍が、そこら辺に
ごろごろしていた時代である。そんな野蛮な時代に来た彼の日本は
どうだろう。ザビエルと言う人なりが見えるようである。

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2007年11月19日 (月)

岩崎邸の厠

Yatarou_2
岩崎弥太郎

Iwasakitei_2

岩崎弥太郎は三菱の創始者である。
東京の湯島に邸宅が保存されている。
もともとは、もっと広い敷地だったそうであるが、それでも
豪邸にふさわしい絢爛さだ。
例の洋館は来客用だったそうで年間に数回使った程度であったと言う。
別に山小屋風のビリヤード場や和館もあり、実際の生活は裏の和館を
利用していたそうだ。

Yamagoya_2

Wakan_3

わたしの場合、豪邸を見ると風呂とトイレに興味が湧く。
大体、日本の金持ちってのはこういう場所は装飾は豪華でも
面積は小さい。そういう所に無駄なスペースを注ぎ込むと
面白いのになあ・・・と思うのである。

岩崎邸は有名なので他のネットで探せば、いくらでも
写真紹介があるがトイレがない。憤慨したので撮ってきた。

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小便器

Toilet2
手荒い場

明治のトイレですよ。
人が多かったので大便の方は遠慮した。
しかし、この時代に小便器を備えてあったのはさすがじゃ。
今、見ても違和感がない。

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2007年11月16日 (金)

青い眼のサムライ

以下の言葉の元は オランダ語 である。
どんたく --------------------ZONDAG=日曜日
カルシウム ------------------CALCIUM
チョコレート -----------------CHOCOLADE
セメント--------------------CEMENT
ハム------------------------HAM
インク----------------------INKT
インフルエンザ ------------INFLUENZA
カルキ---------------------KALK
オテンバ -----------------ONTEMB AA R=ならしにくい
スコップ-------------------SCHOP
ランドセル -----------------RANSEL
ズック---------------------DOEK(布、織物)
オルゴール ---------------ORGEL
けんけん(片足跳び)-----HINKEN

日本は言葉でもわかるように、密接な関係が過去、オランダとあった。
オランダ人に画家レンブラント、ゴッホ、 医師シーボルト
(彼は医者ではない。 収集家である。日本に来たくて嘘を言った)
最後は国外追放され、日本に残した一人娘に産科の看護士になった
楠本いね----通称オランダおいね---がいた)、
ポンぺ(オランダ 海軍 が呼んだ医師)、
アンネ・フランク(ユダヤ系ドイツ人、オランダに移り住んだ)などなど。
本国オランダでは知られない人でも日本では多大な影響を与えた人達も
いる。特にポンぺ先生はそういう人である。

この国はどの呼称が正しいのか?
オランダ本国をあわらす時、 英語ではThe Netherlands(ネイザーランド) 。
オランダ語では「ネーデルラント」。
“低い土地”という意味で、古くからベネルクス3国 (オランダ、ベルギー、
ルクセ ンブルク)の地域がこう呼ばれていた。
"The"をつけるのは、この“低い土地”という 普通名詞が固有名詞と
なったためである。
日本語の「オランダ」に由来するHollandも使われるが、これは西海岸に
ある「ホラント」と言う地域の呼称である。
戦国時代、ポルトガル人が訛ってオランダと言っていたことが始めらしい。
Dutch(ダッチ・・・水出し珈琲のダッチ珈琲なんてもんがある)と
言う時もあり、「割り勘」と言う意味でもあるらしい。

その昔、イギリス人は商業に於いて、オランダ人に悪感情をもち、
軽蔑 してこう言っていた。
「割り勘」と言う発想はオランダが祖である。
集団で出費して買う・・・と言う発想はすごい。
ローンもここからの発想であろう。
たとえばレンブラントの絵に集団のものがある。

Renbrant
レンブラント自画像

1人では画家を雇えないので集団で「割り勘」にして1枚の絵を
描いてもらった。
モデルから「俺はこんな不細工じゃない」とか、「ひとまとめにして
描くんだから、もっと安くしろ」とか、注文が集団で、わいわい
言って来るので、レンブラント自身は困ったらしい。

Logo
オランダ東インド会社・・・正式には連合東インド会社
オランダ語: Vereenigde Oostindische Compagnie、略称 VOC )
アムステルダム本社の ロゴ マーク

オランダ人が考えた株式会社はまさにそれである。
1602年に発足したオランダ東インド会社はそうした経緯から
出来上がった。
付け加えであるが、1600年にイギリス東インド会社が発足した。
初期には東インド(インドネシア)での香辛料の貿易参入をめざし、
インドに拠点を置き、イギリス人は手軽にカレー を食べてもらおうと
カレー粉を考案。その後イギリスから日本に入って来たのである。
特に明治 になってイギリス式になった海軍はその影響を受けた。
現在でも海上自衛隊 には毎週「カレーの日」があり、海上では長航海時、
曜日がわからなくなることから「カレーの日」 によって船上員に
曜日を知らせているという役割もあるそうだ。

イギリス東インド会社の発足が1600年と書いた。
祖であるオランダ東インド会社の方が1602年発足と言うのはおかしい。
ここにイギリスとオランダのややこしさ、さらにスペインやポルトガルが
絡んで来る。 戦争である。
スペインやポルトガルは領土や宗教の戦争である。
イギリスとは言わば経済戦争である。

さてオランダの歴史話をしていると尽きない。
中途ではあるが、後はなにがしかの本でも読んでもらいたい。
ここでは日本とオランダの付き合いの始めを書く。

日本がまだ戦国時代(1558年)、オランダは5隻の商業船を出航させている。
この時代、日本は「黄金の国 ジパング」と言われていた。
実際には秀吉の黄金好きが欧米に知れたことが切っ掛けで、庶民が
裕福だったわけではない。
この頃、オランダは東インド会社とは言っていなかった。
オランダは「日本にウール(羊毛)を売りに行こう」と思った。
当時日本は綿の着物しかなかったからである。

その 航路は悲惨を極めた。5隻の内、4隻が沈没、廃船、 病気 のまん延、
立ち寄った国で乗組員の殺害などにもあい、1600年(慶長5年)4月19日
九州豊後国(大分県)の漁村に漂着した。
ボロボロの状態だった。
数名の乗組員の中にオランダ人航海士ヤン・ヨーステン、
イギリス人航海士 ウイリアム ・アダムスもいた。
アダムスとヨーステンは、日本に最初に来たイギリス人、オランダ人だった。

Yayosu
ヤン・ヨーステン(耶楊子)

Adams
ウイリアム・アダムス( 三浦 按針)

時の城主・太田飛騨守は彼らを友好的に迎え、病人の看護をした。

その後、「オランダ人とイギリス人に会ってみたい」と、
アダムスとヨーステンは家康に引き渡され、接見した。
通訳が付いたが、なにせこの時代である。少々ぎこちなさが
あったのではないか。

「そなた達はなにをしに来たのか?」
「ハイ、ウールヲ売リニ、キマシタ」
ウールなど要らないのに・・・と思った。
「では、それを売るために命がけで来たのか」
「ハイ」
家康は感動した。
「そなた達はキリスト教か?」
「イエ、プロテスタントデゴザイマス」
アダムスとヨーステンはカトリックか?と問われたと
思ったらしい。
プロテスタントとカトリックの違いを知らなかったと言えるし、
プロテスタントってなんじゃい?と思ったかもしれない。
キリシタン弾圧は始まっていた。
キリシタン=カトリックであった。
「イエス」と答えていたら、どうなったか。

(ちなみに商人とは・・・
中国の殷(いん・・・前17世紀〜前11世紀半ばにかけて黄河中流域を
支配した古代王朝。日本では殷とよばれるが、次の周王朝が
つけたもので、自らは商(しょう)と称した。ここの民衆は商売が
うまかった。商がほろんで人々は中国のあちこちに逃げ、商売をした。
商の人・・・商人の発祥である。
日本語で商人(しょうにん)を「あきんど、あきない」と言う。
いくらやっても”飽きない”・・・からきていると言う。

アダムスはその後、三浦半島の横須賀で西欧の事情や天文・数学の師として
また、造船の技術者として働き、日本名「三浦按針(あんじん)」を授かった。
ヤン・ヨーステンは江戸で日本の貿易の手助けをした。
家康から屋敷を与えられ、 江戸城下に住み、日本人と結婚した。
今もその場所をヤン・ヨーステン(日本名:耶楊子・・ヤヨース)に
ちなんで「八重州(やえす)」と呼ぶ。

2人は青い眼のサムライとして仕えたのである。
「ガリバー旅行記 」の ガリバー のモデルは
ウイリアム・アダムスではないかと言われている。
はじめて見た日本人が小人に見えたのかもしれない。
話の中に日本そのものが出て来るのである。

ヤン・ヨーステンは、その後帰国しようとバタヴィアに渡ったが
帰国交渉はできず、再び日本へ帰還中、乗船していた船が
インドシナで座礁し、1623年に溺死 した。

ウイリアム・アダムスは平戸にて、1620年病死。


参照:オランダ観光協会、中央区史誌、 東京駅八重洲口、
神奈川県三浦市史誌、 司馬遼太郎 「街道をゆく 〜オランダ紀行」
田口一夫「ニシンが築いた国オランダ」

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